「渡り合えるサムライ」と呼ばれる男―水害もコロナも乗り越えて、九州 の水辺から果たす復興まちづくり
2020年7月の豪雨被災以来、約2年間の運休を乗り越えて、今年7月22日に運航を再開した「球磨川くだり」。従来の「球磨川くだり清流コース」(4.5km)から、運航の安全確保が見込める一部区間に短縮して「球磨川くだり清流復興コース」(2.5km)での再スタート。同時期に開業1周年を迎えた、人吉球磨の新しいランドマーク「HASSENBA」の運営と併せて、波乱万丈な再建・復興ストーリーをレポートします。
地域資産「球磨川くだり」事業の再建―“ピンチはチャンス”
九州・熊本県南部の人吉盆地を貫流し、川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り八代海に注ぐ一級河川、球磨川。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもあります。この急流を活かした遊覧「球磨川くだり」の歴史は 100 年以上と言われ、昭和初期には与謝野鉄幹・晶子夫妻も人吉に訪れ、球磨川くだりを詠んだ歌も残されています。
球磨川くだりの船の出発場所(発船場)は、熊本県人吉市の中心市街地地区の沿岸にあり、2020 年 3 月国土交通省「かわまちづくり支援制度」に登録された、市策定「球磨川・人吉地区かわまちづくり計画」区域に位置しています。
同計画は、球磨川くだり発船場から下流約1・5キロ区間において、人吉城跡の川岸や中川原公園周辺など計7カ所を整備するもので、同省が河床掘削などに取り組み、市は案内板や街灯などを整備する、としています。
球磨川くだりの事業は、1962 年 12 月に設立された人吉市の第 3 セクター「球磨川くだり株式会社」によって運営されています。発船場は市が占用する河川区域に設けられ、休憩所などの交流拠点施設は隣接する私有地に建てられています。比較的整った環境下での水辺利活用事業と言えますが、実は長期にわたり経営難に陥っていました。
上天草市でクルーズ事業「株式会社シークルーズ」を経営する瀬﨑公介さんが、金融機関などからの依頼で球磨川くだり会社の経営再建を引き受けたのは 2019 年 1 月。業務提携を締結し、同社株式の34.5%を取得することで代表取締役に就任しました。
「地元の人間でもない、他所から来た私が事業を承継し、あれこれと改革をするというのですから、いろいろな人にいろいろなところでいろいろなことを言われました」と、穏やかな表情で当時を振り返る瀬﨑さん。
就任直前には、経営体制の変更による劇的な経営改革を恐れた船頭を除く全社員が退職してしまいますが、新たにスタッフ募集を地元で行ったところ、「球磨川くだりを残したい」という熱い思いを持つ人が集まり、むしろ「まっさらな状態から」改革のスタートを切ることができました。「まさに、ピンチはチャンス」(瀬﨑さん)。
就任から半年が経った2019年7月には大雨による 11 日間の全便運休を経験しましたが、11月の乗客数は前年度比 150%、冬季(12月~翌年 2月)は過去 10 年間で最高の乗客数2,035人を記録しました。
順風満帆とはいえない状況の中でも好成績を残せた理由について、瀬﨑さんは「お客さまへのサービスにおいて、当たり前のことを当たり前に行う、そのことを徹底していただけ」と、再び穏やかな表情で振り返ります。そこで、経営者として「当たり前のことを当たり前に行える」状態へ導く秘訣を質問すると、少し考えて、「経営や改革においては、言葉による説明や説得よりも、結果が全てを解決する、常にそう思って取り組んでいますね」とのお答え。
しかし、翌2020年にはさらに大きな試練が瀬﨑さんを待ち受けていました。新型コロナウイルスの感染が国内でも徐々に拡大し4月には全国で緊急事態宣言が発令され、球磨川くだりも休業状態となりました。瀬﨑さんがこの状況を受けて考えたことは、川下りだけではない、「事業の多角化の必要性」だったといいます。
以前から人吉市内に観光拠点がないことにも着目しており、この機会にカフェ・レストランを含む、人吉球磨川の「ランドマーク」となる複合施設をつくろう、と動き始めました。
コロナ禍で始動、人吉球磨川の観光拠点づくり
コロナ禍で地域にとっても事業にとっても「拠点」が必要であると痛感し、実際に動きを始めた瀬﨑さん。
さまざまな人がゆったりと集えるような場づくりのためにお声がけしたのは、九州素材を使ったパンケーキを開発・販売し、「九州の食文化」を世界へ発信しながら多くの自治体や経営者を巻き込むことで九州ブランドの確立に尽力してきた「株式会社一平ホールディングス」代表・村岡浩司さんでした。
2020年7月、初めて現地を訪れた村岡さんは、発船場からの風景を見て、「居心地のよさが一等地」である、と感じたそうです。これまで世界中を旅した経験から「美しい風景はたいてい交通の便が悪いところにあるが、国内ではそのアクセスへの投資がされていないのがもったいない、と常々思っていた」と明かします。
村岡さんたちの力を借りて、川下りをしに来た客だけではなく、地域の人たちも人吉球磨川の居心地のよさを堪能するための「拠点」という、新たな価値を生み出そうとしたその矢先、最大級の試練が訪れたのです。
人吉球磨川を襲った未曾有の洪水被害発生
村岡さんたちが視察に訪れた1週間後の7月3日から4日、九州や中部地方など日本各地で発生した「令和2年7月豪雨」により、球磨川は記録的な大雨により流域各所で河川が氾濫し、人吉エリアは特に大きな被害を受けました。
被災直後の発船場は、一帯が上流から流されてきた土砂やがれきで覆われ、船は全12隻が流出、数隻を除いて使用不可能になってしまいました。一時は大人の腰上まで浸水したという事務所建物内は、水が引いた後も泥やがれきが蓄積している状態でした。
災害発生時、出張で大阪にいた瀬﨑さんは、社員へ避難指示を出し、身の安全の確保を最優先に図ったといいます。全員の無事を確認後、即座に復旧作業の準備に取り掛かり、県内の建設会社へ連絡を入れ、街なかの泥やがれきの撤去に必要なブルドーザーやショベルカー、ダンプ十数台の重機を中心に手配しました。作業着手は発生から4日後、周辺の片付けは7月20日には完了していました。「2012年の九州北部豪雨で知人が経営するホテルの被災状況をみた経験から、復興のためには何が必要で、まず何を押さえるべきかがわかっていたのです」と、瀬﨑さん。
債務超過事業を引き受け、大雨を乗り越えて好成績を記録し、コロナ禍からヒントを得て新しいチャレンジへ一歩を踏み出そうとしたところに発生した、未曾有の球磨川洪水被害。「さすがに、この事業をどう閉じようかと考えていた」矢先、瀬﨑さんのもとへは地元選出の国会議員などから、直接激励の電話が入り、行政からの復興支援金制度創設への動きを知らされたといいます。「だから踏ん張れ、と。それなら、と、再起への背中を押してもらいました」と振り返ります。
「川から逃げない」―HASSENBA HITOYOSHI KUMAGAWA をオープン
「歩みを止めない」そう腹が決まった瀬﨑さんはまた、素早く動き出しました。被災した中小企業の施設・設備の復旧経費の一部を補助することで、地域経済・雇用の早期回復を図るという特例措置「熊本県なりわい再建支援補助金」を活用し、人吉球磨川の居心地のよさを堪能する「拠点」建設を進めるための補助金の申請作業を急ぎました。同時に、村岡さんをキーマンとした、さまざまな分野のプロフェッショナルによる「HASSENBA RENOVATION PROJECTチーム」も形成されました。
発生から5カ月後の12月、補助金申請を完了し、翌年1月26日には発船場の再生計画を発表。被災からちょうど1年後の7月4日、「ツアーデスク」「カフェ」「ショップ」の機能を兼ね備えた観光拠点施設「HASSENBA HITOYOSHI KUMAGAWA」を開業させました。当初考えていた一からの建物建設ではなくリノベーション工事によって、被災した地域復興のシンボルとして、賑わい創出や観光誘客の一助となることを宣言しました。
拠点のコンセプトは、新生・発船場が、人吉球磨川を「発信」、「発見」、「発展」する場であること。施設イメージには「和+モダンで伝統文化を感じさせるデザイン」「インパクトがあり地域に根ざした施設」を掲げています。
複合施設のデザインの鍵は「球磨川と背景に広がる人吉城址の杜の風景」。村岡さんは、「川に背を向ける のではなく川に向かうという視線で、『川から逃げない』ことを表現している。球磨川の水辺に向かって開放的に広がる窓(カーテンウォール)が決め手」と説明します。
「川から逃げない」という思いは、公式サイトやプレスリリースなどの公式発表のテキストからもうかがえます。球磨川くだりにとって一心同体のパートナーとも言える球磨川。共に歩んできた長い歴史のなかで、地域が受けてきた恩恵によって生業を営むことができたのだから、「自然災害という人智の及ばない事象に見舞われても、球磨川には恨みはありません。そしてこれからの未来も球磨川と共に歩んで行く覚悟です」と表明しています。
「渡り合えるサムライ」
2019 年の事業承継以来、豪雨災害と新型コロナウイルス感染拡大といったチャレンジドな状況下にありながら、わずか3年の間で事業運営を再生のフェーズに乗せた、その要因は何でしょうか。この問いに対し、 瀬﨑さんは「ひたすら自分たちが復興のシンボルになり、地域経済のエンジンになろうという強い気持ち」と 答えました。
ただし、瀬﨑さんには「強い気持ち」を形にするための数々の具体的なプランと行動力という裏付けがありました。目指す未来に向かい、いま打つべき手を先延ばしにせず、スピーディーにタイムリーに動くこと。最高のプロフェッショナルたちが集まってくれたチームにおいて、自分の果たす役割は、コンセプトとアイデアを具現化するための資金調達を成すこと、プロジェクトマネジメントに専心すること、と、ぶれずに進みました。
瀬﨑さんは、被災前から導入していたクラウド化されたシステムを最大限に活用し、業務体制の基盤を迅速にリカバリーできたことも大きかった、と付け加えましたが、先に書いた「言葉による説明や説得よりも、結果が全てを解決する」という瀬﨑さんの行動真理が今回も発揮された結果、ということなのでしょう。
村岡さんは、「事業遂行にあたって瀬﨑さんへの圧倒的な信頼があった」と明かします。「事業家としての『やるか、やらないか』という、一回しか訪れない決断の瞬間に見せる勇気に感銘を受け続けていた」と村岡さん。
「共感や思いだけに頼らず、最後まで言行一致してプロジェクトをもっていく。その能力がずば抜けている」といい、瀬﨑さんを「渡り合えるサムライ」と評しました。その意味について「決して多弁ではないが、国や自治体とも交渉できる、戦もできる。勝つことを見据えて、前線での戦いも後方でのロビイングもできる人」と話してくれました。
災害や危機に甘えず、自ら変化し続けなければ生き残れない
開業1周年を迎えた今、HASSENBA HITOYOSHI KUMAGAWAは、連日多くの人が集い、にぎわっています。リノベーション前の建物は、中高年層以上による利用が中心だったのが、現在は利用者の8割が女性であり、学生や小さな子ども連れの家族連れで溢れています。
観光のインバウンド復活の見込みはまだ難しい時期にありますが、だからこそ、地域での売り上げを作らなくてはいけないということ、地域の安らぎの場が必要であるということ。さまざまな人がゆったりと集えるような場をつくるためにオープンした九州パンケーキカフェには、学校帰りや放課後、お休の日に立ち寄る交流拠点になり始めています。
つい先日、校則で禁止されているアルバイトをどうしてもここでしたい、という女子高校生からの要望があったことを「場のコンセプトや思いに共感してもらえた、なによりもうれしかった出来事」と明かす瀬﨑さん。早速その気持ちに応え、学校や保護者と連絡を取り、調整を行った結果、大学入学前の春休みや繁忙期には手伝ってもらえることが決まった、と、目じりを下げて話します。
球磨川くだりを「街の未来につながる事業として見据えている」という瀬﨑さんに今後の展望をうかがうと、「水辺のまちづくり会社として、水辺の付加価値を最大限化することを事業の柱として考えていく」と話します。
また、これまで天草クルーズ事業等で培ってきた経験と実績から「すべての生き物、人間は水が無いと生きていけないということが根本になっている」と話します。
日本は海洋国家であり、水との関わりの強い国。地理的な影響で災害の発生の多さから、防災対策だけになりがちだったが、地域ごとの水辺らしさを守り、活かすことで地域創生や活性化につなげられるのでは、と瀬﨑さん。だからこそ、「質の良いものを事業を通じて地域へ提供し、一社や一拠点だけでなく連携して地域の経済を回していきたい」といい、「災害や危機に甘えることなく、自ら変化していかなければ生き残っていけないのです」と結びました。
相手の眼を静かに見つめながらじっくりと考えたうえで短い言葉を発するさまは、大河の最初の一滴が岩を伝って音もなくキリリと落ちていくよう。瀬﨑さんが「渡り合えるサムライ」と評される理由がわかった気がしました。
人吉市復興まちづくり計画(令和3年10月版)
https://www.city.hitoyoshi.lg.jp/q/aview/33/16236.html
熊本県なりわい再建支援補助金」の交付申請に係る受付について(令和4年度)(熊本県)
https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/61/69531.html
futakoloco 編集長&ファウンダー。主に公民連携分野のフリーランス・ライター/エディター。法律専門書出版社勤務と米国大学院留学(高齢化社会政策)を経て、2016年〜2022年、自らの暮らしの場である二子玉川のエリアマネジメント法人で情報・広報戦略と水辺などの公共空間における官民共創事業に従事。最近は生まれ育った西多摩の多摩川および秋川の水辺界隈でもじわりわくわく活動中。 暮らしを起点にした「本当にクリエイティブな社会」のタネを自らのアンテナで見つけ、リアルに伺った物語を記録し続けることがいま、とっても楽しいです!
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