2017.09.27

大江戸水辺夜話 第一夜 ロマンチック柳橋

かつて「東洋のベニス」と呼ばれた水の都、江戸。そんな東京の水辺文化の源流をタイムスリップ散歩する「大江戸水辺夜話」。ナビゲーターは、「寛政捕物夜話」シリーズ最新刊「東洲斎対写楽―寛政捕物夜話III―」刊行準備中のミステリーロマン作家・江戸文化探求家の藤英二氏。第一弾の舞台は、柳橋です。

はじまりは写楽だった

拙著「写楽な恋―寛政捕物夜話―」の刊行は2010年4月。そのころ寛政年間の名出版プロデューサー蔦屋重三郎の耕書堂から百四十点余の歌舞伎役者の錦絵が刊行され、十か月後忽然と消えた写楽の正体はだれかという謎解きが再燃していた。

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東洲斎写楽画「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」

ミステリーが大好きなので、関連本を猛然と読み尽くし、自分なりにひとつの結論にいたったが、今度はこれを「謎の写楽が謎を解く」というミステリー小説に仕立てたいという妄想にとりつかれてしまった。
早速書き始めたが、小説の背景の地理や歴史を知らないとどうにも書けなくなった。そのころ隅田川に最初に架かった千住大橋たもとの東京青果市場(江戸の昔はやっちゃ場といわれた)のすぐ裏に住んでいたので、小説では自転車ですぐ動ける千住、三ノ輪、吉原、浅草あたりを舞台にした。だが、「写楽な恋」が好評で、出版社からはもっと「江戸」をテーマにした企画にしたいとの要望もあり、2012年9月に続編「東洲斎江戸切絵図―寛政捕物夜話II-」を刊行した。

江戸は水の都だった

この続編のためのロケハンは江戸東京全域に及んだが、そこで知ったのは今の東京はいわれるほど「江戸」を失っていないということ。そして昔の江戸も今の東京も水の都だったということだ。
ロケハンに携行したのは、「もち歩き江戸東京散歩」(人文社)。江戸切絵図が左に、現代の東京の地図が右にと編集されているので、今の東京を歩きながら嘉永年間(1848-1853)の江戸の地理空間がよみがえってくる仕掛けになっていて、楽しいことこの上ない。
このロケハンから続編で東洲斎写楽が自在に歩き回る構想が浮かび上がったのはもちろん、同時に江戸の豊かな水辺に思いをはせることができたのは大きな収穫だった。

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古地図に大きく書かれた「御城」の二字。

まずは今の皇居のある将軍の居城の千代田城(古地図では「御城」と表記。鶴と亀が描かれている)をめぐる掘割がある。お城を守る掘割が今では意図せずして都心を彩る水辺として残っている。
ここに最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのことだ。江戸城を築いたのは太田道灌で、室町時代の長禄元年(1457年)。このときはまだ平城だった。

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日暮里駅前にある太田道灌像。

江戸城の南には品川湊があり、さらにその南に六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があり、関東の内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉へ、さらには外洋へ向かうための重要な交通路だったとされる。
天正八年(1590年)豊臣秀吉に関八州を与えられ、駿府(静岡)から江戸に入った徳川家康は、道灌の築城から百年余の年月が経ち、荒れ果てた江戸城を目にすることになった。
茅葺(かやぶき)の家百軒ばかりが大手門の北寄りにあり、東の十町ばかりの低地は海水が浸す葦原で、南は日比谷の入江で、沖合で点々と砂州が波に洗われていたという。
家康はお城を増築し、道三掘や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。家康が慶長八年(1603年)江戸開府した以降は、神田山を崩して日比谷入江を埋め立てた。
元和四年(1618年)には神田川の開削を行い、万治三年(1660年)に神田川御茶ノ水の拡張工事が行われて、一連の「天下普請」は完了したとされる。

水の都・江戸東京のシンボルはいずこ

「東洲斎江戸切絵図」のロケハンでいろいろと江戸の名残の地を回ったが、神田川が隅田川に合流するまさにそのとば口に元禄の昔から架かっている柳橋一帯が水の都・江戸東京のシンボルではないかと思った。

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「江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図」(国立国会図書館)

さほど川幅のない神田川の川口に立つと、満々たる水をたたえてゆったりと流れる隅田川が目の前に広がり、右手には両国橋、左手には総武線の鉄橋を黄色い電車がおもちゃの車両のように渡っていく、正面の春霞にかすむ向こう岸は両国だ。両国橋のさらに先は東京湾(江戸湾)に流れ込む、江戸の昔は大川と呼ばれた隅田川は、まさにここでは川幅も広く、その先はローマに通じているまさに大河なのだ。

両国橋から神田川河口を望む

両国橋から神田川河口を望む。

柳橋に話を戻すと、今は東京都中央区と台東区をつなぐ神田川に架かる140番目にして最後の橋ということだ。もとは「川口出口之橋」という名前だったが、のちに残る柳にちなんで柳橋と情緒あふれる名に出世した。そこからこの一帯の地名ともなった。今も昔もネーミングはマーケティングの第一歩なのだ。

浅草橋から柳橋を望む

浅草橋から柳橋を望む。

柳橋のブランドは、近辺に集った柳橋芸者という艶っぽいイメージによりさらにその情緒を高めることになった。
江戸中期の寛政のご改革、末期の天保のご改革での風紀粛清で深川花街の辰巳芸者が弾圧され、対岸のこの地に集まったことから柳橋芸者が生まれたということ。もっとも江戸の昔はここ柳橋で屋形船や猪牙船に乗りかえて大川の舟遊びに興じたり、粋人は上流の浅草の少し先の聖天稲荷裏の船着き場まで行き、駕籠に揺られ土手をたどって吉原で遊ぶ中継地として柳橋を使ったようだ。

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歌川広重画「江戸高名会亭尽 両国柳橋 大のし」

もともと問屋が集いその蔵も多い商業地だった地に船宿や料亭や料理屋が軒をならべ、そこを左褄(ひだりづま)を取った芸者が行き交うロマンチックな街へと発展したのが柳橋なのだ。

文化人も愛したロマンチック柳橋

明治以降まで多くの文人たちに愛された柳橋の料亭。今も現存し営業しているのは亀清楼のみとなった。昭和の世にこの亀清楼を愛した文化人は山口瞳と平山郁夫と新聞で知った。

柳橋たもとの亀清楼現在の亀清楼(東京都台東区柳橋1丁目1-3)。

川向うの両国は相撲の地なので昔からお相撲さんが贔屓し、名物のすっぽん鍋を楽しむ錦絵が残っている。
「東洲斎江戸切絵図」では、寛政六年(1794年)二月十六日に蔦屋重三郎が戯作者の山東京伝を亀清楼に呼び出して、「さすがに初夏の名物の鮎の煮びたしには早すぎるが、都鳥の蒸し焼きと寒鰤の刺身の膳」を饗応した。せっかく知り合った東洲斎は危険人物と大田南畝に知らされたので五月興行の役者絵は任せられない。それとなく京伝に頼もうとするが、歌麿同様あっさりと断られる、というくだりの背景に使った。
「蔦屋重三郎は窓辺に凭れ、大川の波と冬の終わりの陽光が戯れるさまを見やりながら、痛み出した胸を押さえ、ひとり呻いた」
もっとも亀清楼の公式HPでは創業は安政元年(1854年)とあるから、ここでは鶴清閣にでもしておいたほうがよかったようだが。

さらに柳橋近辺をディープに散策

江戸時代は神田川すぐ上流の浅草橋の西詰が浅草御門で見附門ともいわれ、江戸城の外堀を形成する門のひとつだった。この橋を渡って江戸通りを今はなき鳥越橋を渡ったすぐ左手に、暦の作成のため天明二年(1782)に設置された天文台の天文屋敷があった。伊能忠敬の測量は幕府天文方としての仕事だった。さらにその裏は古社・鳥越明神。道路をはさんだ向かいの現在の蔵前警察署の裏手から大川沿い一面は五十万石が収納できたという江戸幕府の米蔵の浅草御蔵だった。一番蔵から八番蔵まであり、ここの米は主に旗本・御家人に支給されたという。この浅草御倉は鳥越の山を切り崩して造成された。四番蔵と五番蔵の間の岸辺に首尾ノ松がある。ここは吉原へ舟で向かう道筋にあり、名の由来は、吉原へ向かう粋人が今夜の上首尾を願ったからとも、帰り客が昨夜の首尾を語り合ったからともいわれる。現在は七代目の松ともいわれる。

(左)歌川広重「浅草川首尾の松御厩河岸」、(右)現在の首尾ノ松(東京都台東区蔵前1-3)。

逆に隅田川沿いに少し下ると、「浮いた浮いたの~」の歌詞で思い起こす明治一代女の浜町河岸がある。今の浜町公園あたり。そして現在の明治座。さらにはその先には大伝馬町の囚獄。徳川家康が、もとは葦原だった今の人形町あたりに廓を公許した元吉原や芝居小屋などの旧蹟が多くある。

江戸タイムスリップ散策ノススメ

今の東京の水辺を散策すると、その足元はもとは運河だったり、岸辺だったり、葦原だったりする。足元には江戸の歴史が眠っている。百年、二百年、三百年と過去へ過去へとあなたの頭脳と古地図を使い、想像力でもって歴史を遡る。そんなタイムスリップ散策をぜひお楽しみあれ。

この記事を書いた人

ミステリーロマン作家/江戸文化探求家/デザイン会社代表取締役

藤英二

1946年福島県福島市生まれ。1968年早稲田大学第一文学部中退 。2010年 『写楽な恋―寛政捕物夜話―』出版。2012年『東洲斎江戸切絵図―寛政捕物夜話II-』出版。2017年に上記2冊電子出版(楽天KINDLE、AMAZON)。近刊予告『東洲斎対写楽―寛政捕物夜話III―』 大学中退後、専門学校で英語を学び直し同時通訳を目指したのち、プロダクトデザイン会社に米国バイヤーのコーディネイターとして入社。2000年に遊技機デザインの専門会社に改組し代表取締役に就任。一方でミステリー作家を志す。もともと好きだった北斎に加え、2000年頃から「写楽とはだれか」の謎解きにもはまり、江戸文化全般に関心を広げていく。『寛政捕物夜話シリーズ』では捕物帖の体裁をとりながら写楽の謎に迫り、近刊『東洲斎対写楽―寛政捕物夜話III―』では「写楽は2人いて、しかも1人は日本人ではない」という大胆な推論を導き出している。現在、若き日の宮本武蔵の小説を執筆中(2018年出版予定)。趣味は毎週日曜の早朝テニス。

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