2014.12.03
水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第4回:羅漢寺川(目黒川支流)・かんじる川
目黒川支流の「リア充」暗渠、羅漢寺川。
目黒川といえば、東急田園都市線の池尻大橋駅付近を起点とし、中目黒駅から五反田・大崎駅あたりを抜け旧品川宿を通って天王洲へと注ぎ込む、都内でも有数の大きな開渠(水面の見える川)です。特に中目黒駅付近では数キロに亘る見事な川岸の桜並木が毎年大勢の花見客を集めていることもあり、多くの方に知られているメジャーな川なのではないでしょうか。それだけの「大河」ですから、当然支流もたくさんあるのです。ただし今はもう水面が見えなくなってしまった暗渠として。
そのたくさんの支流暗渠のうち今回は、「羅漢寺川」をご案内します。羅漢寺川は東京オリンピック前後の高度成長期に暗渠化されましたが、いまだ本物の湧水が勢いよく湧き出している希少ポイントもありますし、流路の傍らにも目黒不動の湧水と池、林試の森公園の池などが見られる「水辺的にリア充」、水を感じる装置の豊富な暗渠でもあります。
この連載の第1回目で、ネットワーク・歴史・景色という「暗渠の愉しさ3つの要素」について述べさせていただいたので、今回はこの要素ごとに羅漢寺川の魅力をご紹介していくことにします。
四方から集まって目黒川へとつながる「ネットワーク」。
まずはネットワークのお話から。
地図中の青色ラインが羅漢寺川全体です。川の起点は大きく4か所。一番上(北)からの流れは、目黒通りからちょっとだけ南下したところにある谷頭(谷のはじまり)から流れ出るもので、「入谷川」と呼ばれていました。残念ながらここに水辺の痕跡は殆どなく、羅漢寺川本流に合流する直前でやっと水辺らしさを感じることができます。
反時計回りに回った次の起点は目黒通り沿いの東急バス目黒営業所のバスターミナル内。バスターミナルといえば「暗渠サイン」(リンクお願いします→http://mizbering.jp/archives/10743)の一つですが、この話題は後程改めて。この場所から流れ出るのが「六畝(ろくせ)川」です。ここに清水(!)稲荷というお稲荷様があり、水が湧いて池ができその流れが羅漢寺川へと向かっていました。やや下流の目黒四中付近でも水が湧いていて、水量は豊富だったとのことです。
3つめの起点は目黒本町1丁目と小山台2丁目の間、都道420号鮫洲大山線横です。この目黒区と品川区の区界の1点から羅漢寺川の本流が始まっています。
最後は、林試の森公園を貫く谷の始まりの地点。丁寧に追いかけていくと禿(かむろ)坂を越えた尾根(品川用水という人工水路があった所)まで辿っていくことができます。いろいろな資料をめくっても名前がわからないので、暫定的に「禿坂支流(仮)」と名付けておきましょう。実はこのように「名もない川」に勝手に仮名をつけていくのも、暗渠ハンティングの小さな愉しさです。
これら4点からの流れが林試の森公園北側の谷に集まって、目黒不動の湧水を合わせながら山手通りを越えて目黒川へと向かうのが羅漢寺川です。
羅漢寺川の水面で感じる「歴史」の断片。
羅漢寺川でも、たくさんの歴史のかけらを感じることができます。字数の関係でそれぞれ詳しく述べることはできませんが、水辺の絡みがある主な感じどころ・調べどころをご紹介します。
まず真っ先に挙げるべきは東京競馬場の前身ともなった「目黒競馬場」でしょう。明治40(1907)年から昭和8(1933)年までの間、入谷川の上流端を包み込むように競馬場が存在し、その痕跡は、トラックの曲線通りに走る道路や目黒通りの交差点名などに残っています。入谷川の流れる谷はこのトラックに分断されてしまいましたが、谷頭から湧いた水はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。もしかすると当時からトラックを「暗渠」でくぐっていたのかも…。興味は尽きません。
また、明治末期から大正にかけて目黒不動のすぐ上流(西側)には、「目黒花壇 苔香園」という庭園があり、羅漢寺川に沿って庭内に3つの池が並んでいました。きっと花や緑がふわりと薫り水面には光がきらきらと輝く、風光明媚な景勝地だったに違いありません。現在、ここに関してはあまり情報が残ってないのですが、ネットを検索してみると港区にある同名のビルの賃貸情報がずらりと出てきます。もしかしたらこの苔香園と関係があるのかも…いつか詳しく調べてみたいと思っています。
その他にも、禿坂支流(仮)を抱きながら目黒試験苗圃・林業試験場と変遷してきた「林試の森公園」や、その北西のはしっこに羅漢寺川を挟んで隣接していたという「小山園釣堀」など、特に明治以降の近代を感じる「歴史のかけら」が散りばめられています。
ちなみに羅漢寺川という名前の由来となった五百羅漢寺ですが、もともとあった江東区からこの地に移ってきたのは目黒競馬場ができた1年後の明治41(1908)年。一方隣接する目黒不動は、江戸時代の一大行楽地でありさらに9世紀までも歴史を遡ることができる古参のランドマークです。この川を「不動川」と呼んだ時期もあったらしいですが、なぜ不動川という名が定着せず羅漢寺川となったのか…これも今後掘り下げて調べてみたいことの一つです。
上品、時々粗野。妖婦のような羅漢寺川の「景色」。
「景色」の愉しさについては、さらに「暗渠サイン」(第2回「暗渠の見つけ方」参照)「暗渠自体のバリエーション」「暗渠の見立て」の3つに分け、写真を中心にご紹介していきましょう。
羅漢寺川でもいくつかの「暗渠サイン」を見ることができます。まずは「車止め」。区界でもある羅漢寺川本流の上流端でさっそく出現するほか、暗渠が車道を横切る多くの地点で数々の車止めが存在します。
また、川筋を丁寧に観察していくと「護岸」「川面への段差・階段」「マンホール列」「突出し排水パイプ」など水の存在を訴えかける物件も豊富で、あちらこちらで静かに川の息吹を感じることができます。
禿坂支流(仮)の途中、林試の森公園水車門の付近には、その名のとおり「水車」が設置されていますが、これはどうやら複製のようです。
流域のほとんどが住宅地や大公園・寺社を抜けていくので、豆腐店や染物店、クリーニング店など商店系の暗渠サインはあまり見ることができません。目黒不動前や下流域に数軒確認できる程度です。しかしその代わり学校、大小の公園など「広い敷地を要する施設」は流路沿いにいくつも確認することができます。中でも一番の注目物件は、先にも触れた六畝川の水源に元・清水稲荷に代わって鎮座する東急バスのターミナルでしょう。開設は昭和15(1940)年とのことですが、水源のジュクジュクした土地は開発が後回しになり取り残されていたため用地買収がしやすかったのではないか、と推測しています。
続いて「暗渠自体のバリエーション」ですが、区間が短く比較的都心に近いこともあってか、アスファルトが敷かれている・普通の道路と一体化されている・特に一部では化粧タイル貼りまで施されている、など全体に加工度は高めです。人にたとえるなら「ばちっとメイクしてエレガントな服を着こなすご婦人」のようだと言えるでしょう。しかしその中にあっても本流の上流端の短い区間、そして入谷川と本流が一つになってから目黒不動に流れ込むまでの区間では細く・暗く・湿って苔むし緑生い茂るワイルドな景色が続いていて、それはまるでご婦人の「妖しく欲望をあらわにした裏の顔」を垣間見てしまうようです。特に後者の区間では、冒頭でご紹介したあたかも本能のままの如く漏れ出す湧水や、開渠時代を透かし見るような姿(下の写真)が見られ、羅漢寺川の持つ妖婦のような艶めかしさを十分に引き立たせています。
さて最後は「暗渠の見立て」となりますが、こちらはあえて書きません。競馬場を駆ける蹄の音を響かせるような荒々しい流れが見えてくるか、はたまた寺社のご加護を受けた穏やかな水面が目前に現れるか。字数も尽きてきましたのでぜひご自身で、妖婦・羅漢寺川と向き合いながら五感を研ぎ澄ませつつ存分に感じてみてください。
次回は「デイリーポータルZ」ライターの三土たつおさんが、また別の「水のない水辺」をご紹介する予定です。
<参考文献>
「近代の羅漢寺川(不動川)」田丸太郎 「郷土目黒」第41集 H9年より
「めぐろ街あるきガイド」目黒区 H20年
「目黒川流域河川整備基本方針」東京都 H26年
ある日「自分の心の中の暗渠」に気が付いて以来、憑かれたように暗渠を追いかけては自ブログ「東京Peeling!」に書きなぐる毎日。そういえば小さいころから「水」が好きだったなあと最近やっと気がついた。 2015年6月、吉村生と共著で『暗渠マニアック!』(柏書房)を出版。『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』本田創編(洋泉社)にも一部執筆。本業での著書は『絵でみる広告ビジネスと業界のしくみ』(日本能率協会マネジメントセンター)等。日本地図学会所属。
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