2014.11.05

「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第3回
西新宿からまぼろしの神田川支流をたどる。

昭和のレトロ気分満載。 東京オリンピック前に暗渠化された神田川支流。

川の概要

今回辿るのは、「神田川支流」、「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」と呼ばれている東京都内の暗渠です。川は杉並区和泉2−1にその流れを発し、渋谷区笹塚、幡ヶ谷、本町を経由して新宿区西新宿5−20付近で神田川に注ぐ、全長およそ3kmほどの自然河川でした。かつて流域には川の水を利用した水田が拓かれていましたが、昭和に入って市街地化が進み、1963年頃には本流・支流含めて暗渠化されています。
現在の地図に、その流路をプロットしたものが下の地図となります。現在はまったく川のないエリアですが、かつてはたくさんの流路があったのがわかるかと思います。


より大きな地図で 神田川支流(和泉川/神田川笹塚支流)mizbering用 を表示

段彩図で地形を見てみましょう。川が流れていたのは、武蔵野台地末端の淀橋台の端に、南西から北東に続く浅い谷筋。右岸側(南側)にはいくつもの支谷が刻まれいて、「鶴が久保」「萩久保」「牛窪」「地蔵窪」「小笠原窪」などと名付けられたそれぞれの谷から、小川が流れ出て合流していました。そして淀橋台のもっとも高いところには玉川上水が流れ、その南側は渋谷川の水系となっています。

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川の名前

「神田川支流」は、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがったかなり広い流域を持つ川ですが、長いこと特に呼び名がなかったようです。流域の大半を占める渋谷区や、最下流の新宿区では、行政上は単に「神田川支流」と呼んでいます。川・暗渠好きの間では流域の地名をとって「神田川笹塚支流」と呼んだり、1943年刊行の「中野区史」でのわずかな記述にもとづいて「和泉川」と呼んだりしています。ここでは以下「和泉川」と呼ぶことにします。

和泉川の暗渠の特徴

東京都内の中小河川の暗渠化には大きくわけて2つの波がありました。ひとつは関東大震災後から昭和初期にかけて。もうひとつは東京オリンピック前後。いずれも東京で急激な都市化が進んだ時期です。和泉川は後者にあたり、この時期に暗渠化された川の特徴をいくつか備えています。

・ある程度流路が整理(改修)されたのちに暗渠化
・川の大部分はそのまま「蓋をした」かたちで下水道に転用
・暗渠上、幅のある区間は遊歩道や公園として利用
・橋跡が数多く残り、構造もそのまま残されているものが多い
・双子の流路が暗渠として残っている

それでは実際に暗渠を河口側から源流に向かって遡ってみましょう。

河口〜下流部

あやめ橋と相生橋の間、神田川の右岸側護岸にぽっかりとあいた矩形の巨大な穴。これが、かつての和泉川の合流口です。今では下水化された暗渠が大雨で溢れた時以外に、ここから水が流れ出ることはありません。渋谷川などと同様、川の流路は暗渠化時にそのまま下水道に転用されているのです。「十二社幹線」と呼ばれるその下水道は、合流口の手前で暗渠から分かれ、別の下水幹線へと接続されています。

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合流口の上はこんな感じ。かつての流路を覆うむき出しのコンクリートの上に、自動車の進入防止も兼ねた植え込みが置かれています。ここから暗渠を遡って行くこととします。

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暗渠の児童遊園

しばらく進むと、暗渠は遊具が置かれた児童遊園となります。昭和初期に暗渠化された川は、その空間の多くが道路に転用されたのに対し、東京オリンピック前後に暗渠化された川は、当初はそのまま蓋をしただけのものが多かったようです。そのうち、有効な活用法のひとつとして、各地の暗渠上に児童遊園がつくられました。それには児童数の急増により遊び場が慢性的に不足していたという背景がありました。90年代以降、少子化などに伴いこれらの遊び場は徐々に撤去されていきましたが、和泉川下流部にはこうしてまだ辛うじて残っています。ここは伊丹十三監督の映画「タンポポ」(1985年公開)のロケ地ともなっています。

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今も残る戦前の橋

暗渠を横切る道路は、川が流れていた頃のままに暗渠を橋で渡っていきます。数多くの橋の遺構が残ってるのも和泉川の暗渠の特徴です。特に、下流となる新宿区内の区間では、欄干の真ん中こそ切断されているものの、かなり古い橋が残っています。下の写真の「柳橋」は昭和7年(1932年)と、実に80年以上前に架けられたもの。橋を通る通り沿いは、時代の変化から取り残されたかのような、十軒ほどのこぢんまりした商店街となっています。ちなみにこの橋のたもとにはかつて、「日本語のロック」のオリジネーターである「はっぴいえんど」の1stアルバム(1970年)ジャケットに描かれたゆでめん屋「風間商店」があり、今でもアパートに姿を変え残っています。

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こちらの榎橋はなんと大正13年(1924年)3月、関東大震災直後の竣工となります。橋が架けられて今年でちょうど90年、川が暗渠化されてからもすでに50年の歳月がたっています。周囲の風景が激変し、橋の下の水面も失くなり、欄干はぶっつりと切断され、それでもこうして西新宿という都心の片隅にひっそりと残って、毎日多くの人が橋を渡っていくのは不思議に思えます。

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はみだす空間

児童公園の区間を過ぎると、暗渠は植え込みが置かれた歩道に戻り、住宅地の中を抜けていきます。かつてそこが川だったことから、暗渠沿いの家はたいがい、暗渠に対して背を向けています。それは、玄関側が家の公的な空間であるとすれば、暗渠に対しては、より私的な空間を接しているとも言えます。それゆえ、時に暗渠上には暗渠沿いの家の私的な空間がはみ出していることがあります。台所の物音や匂いがしたり、塀越しに庭の木が枝を伸ばしていたり、植木鉢や物干し竿が並べられていたり。場合によっては庭に取り込まれているようなこともあります。写真の場所では、暗渠沿いの家が敷地内に自動販売機を設置しているのですが、ついでに設けた休憩用の椅子が暗渠上にはみ出しています。

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中流部

暗渠は都営大江戸線西新宿五丁目駅付近で、方南通りを越えて渋谷区内へと入っていきます。山手通りと方南通りの交差点「清水橋」は、和泉川に架かっていた橋に由来する地名です。清水橋の前後はつい最近、首都高環状線と山手通りの整備に伴い小綺麗な遊歩道に変わりました。あまりの変化に戸惑いますが、しばらく進むともとのうらびれた風景に戻ります。

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架け替えられる橋、生き残る橋

京王線幡ヶ谷駅付近を南北に通る「六号通り」付近まで、暗渠は引き続き、ところどころに植え込みの置かれた歩行者道となって南西へと続いていきます。
新宿区エリアには古い橋が残っていたのに対し、渋谷区エリアでは暗渠に架る橋の「架替え」が進んでいます。写真の二軒屋橋は大正13年(1924年)竣工のコンクリートの橋がまるまるそのまま残っており、関東大震災復興期の貴重な遺構でしたが、3年ほど前に架け替えられてしまいました。暗渠上の橋が残ってきたのは決して「保存」という観点からではなく、たまたまに過ぎないことを象徴的に現している事例といえます。川の風景は暗渠化された後も変わり続け、土地の持つ記憶は薄れていきます。

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写真の「村木橋」は昭和30年(1955年)の竣工。和泉川の橋跡では珍しく欄干が完全に残っており、かつて水面があったころの姿を残しています。しかし、これもいつ架け替えられ姿を消すかわかりません。

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地形の記憶

暗渠化されていても、川は川。その流路は谷筋であり、雨が降れば川沿いに向かって水が集まってきます。暗渠の上にはあちこちに、大雨に備えて、ケースに納められた土のうが用意されています。

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本町小学校跡地を通り過ぎた先から、今たどっている暗渠の北側に数十〜百メートルほど離れて並行する、もうひとつの細い暗渠が現れます。この暗渠は上流部まで続いています。暗渠をたどっていると時折、このような並行する2本の双子のような暗渠に遭遇しますが、これは地形と土地利用に由来するものです。これらの暗渠(川)沿いは深浅の差はあれど、いずれも谷戸地形となっています。そして谷底の低地はかつて水田として利用されていました。この水田の給排水のために、谷戸を流れる川をふた手にわけて谷戸の両縁を通し、片方は水田に水を引き入れるため、もう片方は余った水を排水するための水路として機能させていました。それらの水路がそのまま痕跡を残しているのが双子の暗渠です。和泉川の双子の暗渠に挟まれた土地も、かつて「本村田圃」〜「幡ヶ谷田圃」と呼ばれる水田が拓かれて、川の水で稲が育てられていました。

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六号通りを越えしばらくすると、暗渠は道路に組み込まれ、いったん姿を消します。一見川跡を判断することができないように見えますが、道路の微妙なカーブが川の蛇行を継承しています。道路沿いには暗渠サインである銭湯も見られます。

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上流部へ

和泉川は、中野通りを越えると、再び暗渠として姿を現します。ただ、ここまでとは異なり、幅は細く、アスファルトで舗装され、自動車の進入できない細い路地となります。川の蛇行のフォルムがそのまま路地のカーブに残り、かつての流路の姿を彷彿させます。

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くねくねと曲がる路地を歩いて行くと、そこに水面が無くとも川を辿っていることを実感します。

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玉川上水新水路

そして上流部から、暗渠の南側との高低差が大きくなってきます。これは谷筋だからというだけではなく、すぐ南側にかつて玉川上水新水路が通っており、その盛り土が土手状に残っているからです。
玉川上水新水路は、淀橋浄水場への給水路として1898年(明治31年)に竣工しました。現在和泉給水所がある地点で玉川上水から分岐したこの新水路は、旧来の水路が、神田川水系と渋谷川水系、北沢川水系の刻む谷を巧みに避け、分水嶺を縫うように折れ曲がって流れていたのに対し、地形を無視して土手を築き、一直線に淀橋浄水場まで通されました。1937年(昭和12年)には、甲州街道直下に導水管を埋設した新・新水路が完成し、新水路は役割を終えました。しかし戦中・戦後の混乱の中で水路の撤去は未完に終わり、土手の多くの区間がそのまま残されました。写真の暗渠の背後にある土手がその痕跡です。現在、土手上は通称「水道道路」と呼ばれる道路となっています。

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源流部

環七通りの手前、杉並区に入ると、今まで辿ってきた暗渠はいったん姿を消します。この付近が今まで辿ってきた暗渠の流れる谷筋の最上流部となります。暗渠化される前はもともとあった和泉川の流れ、玉川上水からの分水、玉川上水新水路、そしてその開削に伴う土手沿いの排水路など、いくつもの水路が複雑に交錯していました。ここではそのうち和泉川の2つの源流を辿ってみることとします。

鶴が久保の源流

まずは、本流ともいうべき水路の跡を辿ってみましょう。水道道路を越え南側に出ると、再び西へと続く細い暗渠路地が現れます。路地の両端にはかつて水が流れていた頃の護岸の石組みが残っており、水面をそのままアスファルトで塗りつぶしたかのような様相となっています。

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暗渠は環七通りで一旦遮られますが、その先にも暗渠路地が続いていきます。杉並和泉商店街を横切る地点では、暗渠を横切る道路の起伏で、谷であることがはっきりとわかります。路上の沢山のマンホールが印象的です。

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暗渠は段々と細くなり、源流が近づいてきていることを感じされされます。この先少し進んだところで細い路地はふつうの道路となって姿を消します。

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付近は特に水の気配もない静かな住宅地となっていますが、かつては「鶴が久保」と呼ばれてた浅い窪地で、じわじわと水が湧いて、川となって流れ出ていたといいます。「つる」はもともとは湿地や水流を表す地名で、都内でも他にいくつか存在します。「鶴が久保」はまさに川の水源だったことを表す地名と言えます。

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萩久保の源流

次に、もうひとつの源流とも言える流路を辿ってみましょう。水道道路を南側に抜け、甲州街道と環七通りの交差点付近をよく探すと、ビルの谷間にコンクリート蓋の暗渠がひっそりと残っています。「萩久保」と呼ばれていた浅い谷筋を流れていた川の名残です。かつて、甲州街道がこの川を渡る地点には「三郡橋」が架かっていました。これは、橋の架かる場所がちょうど 南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の接点となっていたことに由来します。この接点は今でもなお、渋谷区、杉並区、世田谷区の境界となっています。

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流路は甲州街道で一旦断ち切られるものの、その先にも更に残っています。写真は道路を横切る暗渠。今では下流と断ち切られて水は全く流れていませんが、こうしてその痕跡はしっかりと残されています。

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更に遡って行くと、暗渠はマンホールにぶつかりぷつりと消えます。ここがいわば川の始まりの地点です。数メートル背後には玉川上水旧水路(暗渠)が通っています。こちらも、もともとは浅い谷からじわじわと湧く水を集めて川が流れ出していたのでしょう。上水からの漏水も加わっていたかもしれません。

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幡ヶ谷村分水

最後に、和泉川に接続され、川の主要な水源のひとつとなっていた「玉川上水幡ヶ谷村分水」について触れておきましょう。和泉川の暗渠が消滅する地点のすぐそばから、玉川上水旧水路を下って行くと、上水路は開渠となります。そして、京王線笹塚駅の手前の土手に、玉川上水から和泉川に灌漑用水を供給していた「幡ヶ谷村分水」の取水口の跡が残っています。写真中央の石積みの右、コンクリートで塞がれた箇所がかつての取水口です。

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「幡ヶ谷村分水」が開通したのは江戸時代中期、1775年のこと。水路は北上したのち甲州街道に沿って西向きに流れ、先の三郡橋で和泉川に合流していました。ただ、分水口は15cm四方と、玉川上水に三十数箇所あった分水口の中でも最小の部類に入るもので、水は慢性的に不足していたようです。
水への切実な思いは、幡ヶ谷村の人たちをある行動にまで駆り立てました。明治20年代、村人たちは分水口のすぐ脇に弁財天を祀ることとし、脇には弁天池が掘られました。すると池から「たまたま」水が「湧き出し」たため、分水の水を増やすことができました。実はこの湧水は玉川上水の水であり、弁財天は上水から「盗水」するための方便だったのです。大正末期には水事情が好転し、やがて池は埋められて弁財天は移転しました。

おわりに

さて、いかがでしたでしょうか。和泉川は蓋をされて暗渠となり、その水面は覆い隠されてしまいました。しかし、実際に辿ってみると、そこには様々な年代の、地形/風景/土地の記憶が多層的に重なりあい、投影図のように同時にプロットされているのを垣間見ることができます。そして、暗渠沿いに残る遺構や地名、地形を手がかりに、更にときには地図や資料を合わせて丁寧に紐解いていけば、失われた水辺を巡る様相が浮かび上がってきます。
紙面の都合で取り上げることができませんでしたが、和泉川には数多くの支流があり、それぞれがまたささやかな、けれども興味深い水辺の記憶を湛えて潜んでいます。次の週末にでも、数時間で愉しめる「水のない水辺」を散歩してみてはいかがでしょうか。

この記事を書いた人

暗渠者 Underdrain explorer

本田創

1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川(藍染川)跡の道から暗渠の道にハマる。 1997年より開始した東京の暗渠や河川、湧水を巡るウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。 『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』(洋泉社)編著。 ほんとうは暗渠よりも清流が好き。

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