2015.09.05

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる

時代により役割を変えながら300年流れ続けた三田用水

「水のない水辺から」第10回となる今回は、東京の台地上を流れていた、失われた「水路」についてとりあげてみましょう。
川は通常谷筋を低い方へと流れるものです。川の跡である暗渠もまた谷底を流れています。しかし、中には台地の上の「暗渠」も存在します。それらは、かつての用水路の跡です。今回とりあげる「三田用水」はそんな「台地の上の水のない水辺」のひとつです。

三田用水のなりたち

1653年、江戸では市中の飲用水の供給を目的として、多摩川から取水した玉川上水が開通します。上水は、羽村市の取水地点から40km以上離れた江戸市中まで水をスムーズに届けるために、谷筋や低地を避けて武蔵野台地の中央の最も高いところを選び、掘削されました。
やがて流域の村々の飲用水や灌漑用水として、数多くの分水路が台地上の尾根を伝うように開削されていきます。それらの中で最も初期の分水のひとつが「三田上水」です。
三田上水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。上水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。
三田上水にさきだち1657年には、伊皿子の細川家下屋敷のための上水「細川上水」が開削されており、これにほぼ平行して三田上水の水路がつくられたといわれています。ちなみに、三田上水とならび玉川上水からの主要な分流である「品川用水」も、細川家が戸越の下屋敷のためにひいた「戸越上水」が前身となっています。
上水は1722年にいったん廃止されますが、流域の村々の要望から2年後の1724年に「三田用水」として復活します。用水は流域13村(北品川宿、上大崎、下大崎、谷山、上目黒、中目黒、下目黒、中渋谷、下渋谷、白金、今里、三田、代田)の田畑を潤しました。その後時代の変化に伴ってその役割や姿を変えつつ、1974年に通水が停止されるまで300年以上にわたり、三田用水は水を送り続けてきました。

三田用水と地形

玉川上水と同じく三田用水もまた、より遠くまで水を届けるために尾根の上を選んで通されています。そのルートはちょうど、渋谷川と目黒川の分水界にあたります。段彩図で地形を見てみると、それは一目瞭然です。細長く伸びた台地の上を、渋谷川や目黒川の枝谷を避けながら用水が通っています。そして、それぞれの枝谷には分水が落とされており、三田用水と目黒川・渋谷川のあいだにはあたかも動脈と静脈のような関係性がなりたっています。
分水地点の標高は40m、終点の高輪は標高29mと、標高差は11mほどですが、用水の通る台地上と、渋谷川・目黒川の流れる低地との標高差は25m前後に及びます。この落差を利用し、用水から分水された水路には数多くの水車が設けられました。

00_三田用水段彩図s

三田用水の役割の変遷

三田用水に特徴的なのは、時代時代でその役割を変えてきた点です。まず飲用水、つぎに農業用水、更に動力源として。また、近代農業の発展にも寄与したり、流域の庭園の泉水への利用もされています。さらに、流域の都市化のなかで、その主な役割はビールの原料水、軍需産業の用水としての利用にシフトしていきます。用水路を分水地点からたどりながら、それらを紐解いていきましょう。

京王線笹塚駅から南へ数分、一部が開渠で残されている玉川上水が再び暗渠となる地点に、かつて三田用水の取水口がありました。玉川上水の暗渠口の柵の右側の不自然なスペースがその場所です。三田上水が灌漑用水として復活した1724年に、流域の村々で水利組合が設立されました。用水の農業利用は1927年を最後になくなり、組合は1952年に解散しましたが、用水路の利用はしばらく続き、1974年8月末に水道局により取水口が閉鎖されて送水は停止しました。(水利組合の清算業務は1984年まで続きました)。

川が暗渠化される場合は、水を集めやすい低地や谷沿いのため、暗渠となり下水道として利用されたりしますが、台地上の用水路はもともと水の流れない場所だったので、廃止されると埋め立てられ、痕跡がなくなってしまうことも少なくありません。それでも道路や緑道、空き地として辿れたりすることもあるのですが、三田用水の場合は水路の敷地を水利組合が所有していたため、組合の清算の過程で水路敷は払い下げられ、宅地などに転用されていきました。このため、現在では水路跡の大部分がなくなってしまい、辿るのが困難になっています。

01_取水口跡

数多くの分水と水車

一方でその分水は自然河川に接続されたため、今でも多くが暗渠として辿れます。井の頭通りを横断した先、北沢小学校の脇には、三田用水からの分水路が暗渠として残っています。三田用水の分水は全部で17箇所あったといいます。それらは流域の村々の灌漑に利用されていましたが、先に記した通り目黒川、渋谷川との落差が大きいことから、水勢を得られるため、数多くの水車が架けられました。明治時代後半のピーク時には実に49箇所もの水車が架けられ、精米・製粉をはじめ、工業の動力源としても利用されました。その頃には水利組合の運営費の七割が水車業者からの水使用料によって賄われていたといいます。これらの水車は大正時代に入ると電力の普及で姿を消していき、昭和初期にはなくなってしまいます。

02_山下口分水跡

水路は渋谷区と世田谷区の境界線を通る都道420号線から西に数mほど離れたところを、並行して流れていました。目黒区との3区の境になる地点には、「三角橋」の名前が交差点の名称として残っています。ここでも南側の「溝が谷」と呼ばれる谷に分水がわかれていました。また、ここから800m先には「二ツ橋」という名前のバス停もあり、痕跡がない中で数少ない証拠となっています。

03_三角橋

三角橋から少し下った東大先端科学技術研究センターの正門前には、立派な欄干が残っています。道路から数メートル離れた場所に一対で残るその欄干は、水路があったころと場所は変わっていないはずです。しかし、欄干の向こう側には建物が立ち並び、水路の敷地が完全に失われていることがわかります。

04_先端研欄干

近代化への寄与

先端研から東大駒場キャンパスにかけてはかつての駒場農学校の敷地です。明治11年に開校した駒場農学校は、日本農業の技術的近代化に大きな役割を果たしました。招聘されたドイツ人の農芸化学者ケルネルは、土壌・肥料学を日本の農業技術に定着させた立役者ですが、かれは稲作に着目し、灌漑水の組成を研究しました。その舞台になったのが、農学校の敷地にのびる谷戸田です。この水田には湧水の他、三田用水からの水が取り入れられていました。つまり、三田用水の水は、日本農業の近代化にも寄与していたことになります。谷戸田の一部は現在も京王井の頭線の駒場東大前駅そばに、「ケルネル田圃」として保存されています。

ヱビスビールの原料水

東大駒場キャンパスの裏門付近では、かつての水路敷の幅に細長く、家屋が建てられているのを確認できます。右側の駐車場の場所は二十数年前は建物が建っており、その取り壊しの際に三田用水の暗渠のコンクリート管が露出しているのが見られました。
三田用水の暗渠化が開始されたのは1929年。この時期都心部の川では都市化による水質の悪化により暗渠化と下水道への転用が起こっていましたが、三田用水の場合は逆に水質を維持するため暗渠化が行われました。暗渠化の施工主は、恵比寿にあった「日本麦酒」。現在のサッポロビールです。そしてそこでつくられていたのは「エビスビール」。三田用水の水はビールの製造にも使われていたのです。水の利用は1889年(明治22年)に始まり、三田用水の通水量の2〜3割ほどを利用して、ビールが製造されていました。
暗渠化は蓋掛けではなく、内径80 cmほどの土管の埋め込みで実施され、取水口から恵比寿の日本麦酒分水口までの区間が順次暗渠化、1938年に完成しています。用水の水は1952年まではビールの原料水として、その後は瓶の洗浄や冷却水として1974年まで利用が続きました。

05_駒場裏門の水路上建物

東大駒場キャンパス裏門を通り過ぎると、山手通りの歩道の脇に、細長い箱状のコンクリート構造物が現れます。これは現在数少なくなった三田用水暗渠そのものの遺構です。水位を一定の高さに保つため、このように底上げした水路となっています。かつてはもっと長い区間にわたり残っていましたが、山手通りの拡幅工事に伴い、半分以上が消滅してしまいました。

06_コンクリート水路遺構

暗渠の上には蓋に取っ手のついた点検口が開けられています。そしてそのすぐそばには、暗渠の側面脇に柵付の小さな穴が残っています。これは、松濤公園から東急百貨店本店方面の水田に引かれた分水の分水口跡と推定されており、点検口の下には分水量を一定に保つための堰があったようです。

07_点検蓋と神山口分水口

遺構の先から水路跡は山手通りを離れ、裏道に沿って南東へと進んでいきます。この裏道の路地が三田用水の暗渠のようにも見えますが、実際には路地そのものではなく、左側の現在は家が立ち並ぶところに流れていました。

08_駒場路地

道沿いを注意深く探すと、少しずつ水路があった証拠のようなものが見つかります。写真は道沿いの家の塀ですが、塀の下に三田用水の暗渠を示すコンクリートが水路敷の幅の分だけ残っています。水路の暗渠は塀の中から右手前に向かって埋まっています。この他にも、水路敷を示す境界石があちこちに残っています。

09_塀の下に残る水路遺構

三田用水の水路跡は、山手通りを越えた先もしばらく目黒区と渋谷区の区界に近いところを南東へと進んでいきます。写真の地点は区界と重なっていますが、三田用水の暗渠はここでもやはり道路ではなく、その左側の駐車場や、その奥の平屋や三階建ての建物がたっている細長い敷地の下を通っています。

10_水路上の駐車場と建物

暗渠の点検孔

滝坂道と交差する地点には、暗渠の点検孔が残っています。ここは三田用水の流れる尾根=渋谷川と目黒川の分水界がもっとも細くなる地点です。こちらの写真は渋谷川側の谷をみたところ。用水は左から右手前に向かって流れていました。

11_分水嶺上の点検孔(渋谷川側)

そして、こちらの写真は逆のアングルで、目黒川側の谷をみたところ。用水は馬の背のような場所を流れていたことがわかります。

12_分水嶺上の点検孔(目黒川側)

邸宅への引水

大山街道(国道246号線)を越えると、水路は台地の南西側の縁ぎりぎりのところを南東に進んでいきます。台地の縁は高低差20m程度の、崖のような急斜面となっていて、その下は目黒川の流れる低い谷となっています。写真は西郷山公園の手前付近で、三田用水は中央の道沿いに奥から手前に流れていました。左側の道を見ると、水路が台地の縁ぎりぎりを通っていたことがよくわかります。明治時代にはこの坂の辺りで分水が分けられ、西郷従道の邸宅の庭園の滝や池に利用されていました。三田用水からは他にも澁澤邸(現八芳園)、池田邸(現池田山公園)、北白川宮邸(現プリンスホテル新高輪)など、流域各所の屋敷の庭園に水が引かれており、水利組合にその利用料が支払われていました。

13_西郷山付近

東京府マンホール

三田用水の流れていた通りが旧山手通りに出る手前、西郷山公園の入口付近には戦前の「東京府」のマンホールが残っています。紋章から、昭和6年〜18年の間に設置されたと推定されます。これが三田用水に関連するかどうかは不明ですが、東京都の下水道台帳には載っていません。

14_東京府人孔

旧山手通り沿いに出た三田用水は、しばらく通りに沿って流れていったのち、駒沢通りの鎗ヶ崎交差点を掛樋で越え、中目黒の台地へと向かっていました。この架け樋は駒沢通りが台地の縁を下るため切通しになっていたため、水路の高さを保つために設けられていたものです。掛樋は周囲のビルの4〜5階相当のかなり高いところを通っていてランドマークとなっていましたが、1982年に撤去され、今は前後の暗渠や橋台も失われてその面影は全く見られません。

15_旧山手通

用水の軍需利用

駒沢通りより先しばらく、水路跡は大型マンションの敷地内、そして自衛隊目黒駐屯地の中を通っており、確認することはできません。再び道路沿いとなるのは中目黒と三田の境目となる新茶屋坂の切通しより先となります。この切通には最近まで「茶屋坂トンネル」がありました。台地に切通しで道を通した際に、三田用水の水路のところだけトンネルにしていたもので、現在は記念碑にその姿を確認できます。
この自衛隊目黒駐屯地もまた三田用水と深い関係を持っています。駐屯地のルーツは1857年に江戸幕府がこの地にひらいた火薬製造所に遡ります。三田用水に架けられた水車がその動力源となりました。明治時代にはいり、1885年には海軍造兵廠火薬製造所としての稼働が開始します。これに先立ち、1880年には玉川上水に「海軍火薬製造所分水」の取水口も設けられ、三田用水の水に加えられています。
当初は動力源として利用されていた三田用水は、動力源が蒸気機関〜電力へと変わる中、こんどは別の用途で使われることになります。1929年、海軍技術研究所が敷地内に開設され、三田用水はそこに設けられた、全長250mの大規模な実験用プールの水源となりました。
戦後米軍の恵比寿キャンプだった時期を経て、施設は1956年には防衛庁技術研究所となり、現在の防衛省艦艇装備研究所に至ります。三田用水の水は送水がストップする1974年まで実験用プールの水や雑用水として使われ続けました。

16_茶屋坂

新茶屋坂の先から水路は再び道路沿いに辿れるようになります。写真は茶屋坂を過ぎたすぐの地点。右に下る坂はもともとの茶屋坂です。この付近でも相変わらず台地上の縁を流れていたことがわかります。そしてここには用水が流れていたことを示す痕跡があります。路上右寄りに描かれたオレンジ色の枠線です。この線で囲まれた場所が三田用水の水路跡です。近年まで、枠の中には「私有地」と書かれており、道路沿いの家が三田用水の水路敷を買い取って所有し、道路の一部として提供していることを示しています。

17_路上の私有地表示

日の丸自動車教習所付近で水路は目黒区を離れ、品川区へと入っていきます。教習所の前には、三田用水の説明板が設けられています。そのたもとには、江戸時代に設けられた用水の木樋の礎石が保存されています。この付近で、日本麦酒の工場への分水が分けられていました。ビール工場は三田用水からの送水が停止された14年後の1988年に閉鎖され、その敷地は1994年に現在恵比寿ガーデンプレイスに生まれ変わっています。

18_三田用水の碑

教習所から目黒駅にかけて、水路は山手線沿いを南下します。写真の道路左側、コンクリートの路面が三田用水の暗渠です。暗渠上にはプレハブの小屋も建てられています。

19_目黒駅そば暗渠

連続する遺構

目黒駅付近で今まで南東方向に進んでいた水路は直角に向きを変えつつ、引き続き谷を避けて台地の縁を弧を描くように東へと進んでいきます。水路跡は断続的に道沿いの細長い敷地としてかろうじて確認できる程度で、相変わらず直接的な痕跡は見あたりませんが、目黒通りを離れ、終点の近くにきていくつかはっきりとした遺構が現れてきます。
写真はかつて三田用水に架かっていた「今里橋」の欄干です。だいぶぼろぼろになっていますが、しっかりとその形をとどめています。この欄干は鉄筋コンクリート造りで、1930年に竣工しています。

20_今里橋

欄干の先には、道沿いに細長くコンクリートの暗渠が残っています。歩道が横切るところには小さな欄干も見られます。周囲は大木が鬱蒼としており、かつて水が流れていた頃の様子をなんとなく忍ばせる、貴重な区間です。

21_今里橋先の暗渠

そして、暗渠の先には水路の跡が保存されています。この場所は白金の台地と高輪・三田・芝の台地の鞍部となっており、水路は高度を保つために築堤で越えていました。用水の利用停止後、築堤の大部分は造成のために壊されてしまいましたが、その付け根の部分だけは史跡として断面を露出させるかたちで残されました。この場所には左右両岸に分水口が設けられており、水路の断面が2つ並んでいるように見えるのは、その関係かもしれません。

22_白金台の水路遺構

水路沿いの道は鞍部の地形をなぞり、一旦下ってから高輪の台地に登ります。坂を登ったところには今里地蔵尊の祠が建てられています。写真は祠から上流方向を望んだもので、右側の道が鞍部を通る道となり、水路は道の左側の現在住宅が並んでいるところにあった築堤を通り、祠の直下に至っていました。道沿いには数年前までは築堤の名残の大谷石の擁壁が続いていたのですが、徐々に取り壊され今ではほとんど姿を消してしまいました。

23_祠

高輪の台地に入った水路はしばらく東進し、現在の都営浅草線高輪台駅前で桜田通りにぶつかったところで終点となっていました(写真のクリーニング店付近)。上水時代はここから先は木樋の暗渠となって台地上を北上し、高輪、三田を経由し芝で古川や入間川(現在消滅)に落ちていたといいます。また、用水になってからは南下して目黒川に落ちる小川に余水を落としていました。

24_猿町終点

おわりに

さて、ここまでたどってきてお判りのように、三田用水の痕跡をたどることはなかなかに困難です。これだけ歴史的な意義を持ちながら、その存在が忘れられていくのは残念なことです。
この状況の背景には暗渠化が早かったことに加え、用水の権利をめぐる、水利組合と東京都の争いがありました。水利組合が解散し清算に入った際、東京都は1927年以降農業への利用がなくなったことを理由に、水利組合に水利権はないとし、裁判が起きました。長年にわたる裁判の結果、1969年、水利権は東京都に、一方で水路敷は水利組合の所有とすることで決着がつきます。これにより、送水の停止後土地の払い下げが進み、1984年の組合解散時にはすべての水路が民間の土地となりました。
通常は暗渠は水路と同様公有地となるので、道路や緑道、あるいは未利用の土地として流路を留めることが多いのですが、三田用水の流路はこのような経緯で流域の町の変化とともに他の私有地に組み入れられ、わずか40年の間に急速になくなっていったのです。
ただそれでも、地形や古地図、資料などをもとに追跡していくと、かすかな痕跡を各所に見つけることはできます。また、三田用水を知ることで、一帯の地形であったり、恵比寿ガーデンプレイスや防衛省の立地の必然性であったりといった、土地の来歴、風景のなりたちの過程が明確に浮かび上がってきます。
紙面のスペース上、ここでは紹介しきれないことも数多くあります。もし興味をもたれたら、ぜひ水路の跡を辿ってみてください。ここ10年ほどをふりかえっても、数少ない痕跡は更にどんどんなくなっていっています。それでも今ならまだ、じっくり目をこらせば、かすかな痕跡が見つかります。

主要参考文献:
三田用水普通水利組合 1984「江戸の上水と三田用水」
目黒区郷土研究会 1997「郷土目黒 41号」
品川区立品川歴史館編1996「品川歴史館資料目録 三田用水普通水利組合文書」
山崎憲治「三田用水跡を訪ねて」2003「めぐろシティ・カレッジ叢書3 地域に学ぶー身近な地域研究から「目黒学」を創るー」二宮書房 所収

この記事を書いた人

暗渠者 Underdrain explorer

本田創

1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川(藍染川)跡の道から暗渠の道にハマる。 1997年より開始した東京の暗渠や河川、湧水を巡るウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。 『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』(洋泉社)編著。 ほんとうは暗渠よりも清流が好き。

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