2015.06.23

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第9回「文学と暗渠。三四郎と美穪子の歩いた川を辿る。

文学に登場する暗渠

東京の暗渠の多くは、明治から大正時代まではまだふつうの川として流れていました。なので、その時代の小説や随筆を読むと、当時の川がどんなようすだったのかを知ることができます。
たとえば大正4年に書かれた永井荷風の「日和下駄」にはこんな記述があります。

「小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある」

文京区の富坂を下ったところに川があったというんですが、地図だとこのあたりですね。

青く書いた線は「小石川」という川がかつて流れていた道筋です。

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今はこんな感じで川っぽい跡は何もありません。続きを読むと、

「両側の家並は低く道は勝手次第に迂(うね)っていて(略)昔ながらの職業(なりわい)にその日の暮しを立てている家ばかりである」

とも書かれていますので、少なくとも大正時代の小石川はくねくねした溝(どぶ)のような川で、周りは古びた景色だったんだなあということが分かります。
それから、樋口一葉の「たけくらべ」(明治28年)はこんなふうに始まります。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる」

たけくらべは、遊郭として有名な新吉原周辺が舞台となっています。「お歯黒どぶ」というのはその周りを囲っていた約10メートルほどの幅もある堀ですが、名前のとおり黒くて汚いどぶだったんでしょう。でも、夜に灯火が反射する景色はちょっと素敵かなと思ってしまいます。

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いまはこんな感じで、妙に幅の広い道として痕跡が残っているだけですけどね。

「三四郎」に登場する川

夏目漱石の「三四郎」は、明治41年に書かれました。東京の川が自然の姿を保っていたほとんど最後の時代です。ここで描かれた川をたずねてみようと思います。

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冒頭、三四郎は汽車で上京しますが、その際の東京の描写がその時代の雰囲気をよく伝えています。

「三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。(略)どこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである(略)。すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。」

まさにスクラップ&ビルドの時代だったんですね。明治から大正にかけて東京の姿はどんどん変わって行き、そして川のようすも変わって行きます。この頃の東京の川はどんなふうだったんでしょうか。

上京した三四郎は、美穪子(みねこ)という女性と出会って、心惹かれます。しかし美穪子のほうは、気があるのかないのかはっきりしない、思わせぶりな態度です。そんな物語の中盤、二人を含む一行が根津の団子坂にさしかかったときに、混雑で二人が仲間からはぐれてしまい、二人だけで川のほとりを歩くという場面があります。

まず、三四郎を含む一行が訪れたのは、団子坂で行われていた菊人形の催しです。

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団子坂というと今ではこんな感じでただの坂ですが、明治の終わりまでは菊人形で賑わっていました。

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これは、文京区ふるさと歴史館にある、団子坂の菊人形のジオラマです。こんなふうだったんですね。そして、ここから三四郎と美穪子だけがはぐれてしまい、二人きりになります。三四郎は、心の中では

「自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである」

みたいな大胆なことを考えるくせに、いざ女性に接すると強気になれません。奥手のように見えます。二人きりになったので三四郎には頑張って欲しいところですが、どうでしょうか。続きを読んでみましょう。

「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。(略)美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。

—夏目漱石「三四郎」より

この場面は、暗渠好きが読むと思わずガッツポーズをしたくなるような嬉しい場面です。谷中、根津、千駄木の一番低いところを流れる川といえば、藍染川に決まっています。以前の連載でも取り上げた川です。そして、団子坂を降りてまっすぐ行った先にある橋といえば、枇杷橋に違いありません。

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ちょっと地図を見てみましょう。

地図の丸印が団子坂、星印が枇杷橋です。団子坂で菊人形を見た後、坂を降りてまっすぐ行って、ここの枇杷橋まで来ました。それからどうしたでしょうか。

「二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。」

左へ折れたというので、つまり北の千駄木方面へ向かったことになります。十間は約20メートルで、その辺りに板の橋があったようですが、手元の明治40年ごろの地図では、枇杷橋の近くにそんな橋は書かれていません。地図には書かれない程度の小さな橋が随所にあったということなのでしょう。

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その辺りは今はこんなふうで、よみせ通りという商店街になっています。明治の終わり頃は、ここが人も通らないような広い野だったんですね。続きを見てみましょう。

「一丁(約100m)ばかり来た。また橋がある。一尺(約30cm)に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。(略)したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。」

ここで二人が渡っている橋は、幅30cmしかない板です。いまのようすからは想像もできませんが、ここにはかつて野原と川があって、無造作な橋がかかっていたということになります。いったいどんな風景だったんでしょうか。

ここに一枚の写真があります。

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明治時代の藍染川。文京ふるさと歴史館より許可を得て掲載。個人蔵。

明治35年頃に撮影された、藍染川の風景です。川の両岸はどうやら畑のようです。奥の方にいかにも幅の狭い、板のような橋がかかっているのが見えるでしょうか。三四郎と美穪子が渡ったのもこんな橋だったに違いありません。そして三四郎はそんな狭い橋を渡る女性に手を貸すこともできていません。奥手のままです。

枇杷橋から約120メートル進んだところというと、今ではだいたい福丸饅頭のあたりです。「10円まんじゅう」で有名なお店ですね。

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続きを読んでみましょう。

「向こうに藁わら屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。」

近くに唐辛子畑があったらしいことが分かります。また、

「三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。」

とありますから、このころの藍染川は水が泥汚れで濁っていくのが分かるくらいには澄んでいたこと、近くで大根を育てていたということが分かります。谷中しょうがは当時も作られていたようですから、しょうが畑もあったことでしょう。

明治時代なんだから川なんかきれいに決まってるじゃん、と思うかもしれませんが、そんなことはないのです。「三四郎」の3年後、明治44年に書かれた森鴎外の「雁」では、同じ藍染川が次のように書かれています。

「寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。」

藍染川の水がお歯黒のように真っ黒だったと言っています。さきほどの三四郎のきれいな藍染川の描写とはまったく違います。また、漱石自身が大正3年に書いた「こころ」では、

「評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津の大きな泥溝(どぶ)の中へ棄ててしまいました。」

と、藍染川(あるいは近くの堀かもしれません)を泥のドブの呼ばわりしています。どうしてこんなに描写が違うんでしょうか。

これは単純に時代が下ったことに加え、「三四郎」での記述が上流の野原や田畑近くのようすなのに対し、「こころ」や「雁」では下流の街中のようすであることも関係があるでしょう。上流では澄んでいる川も、下流に行くに従って民家や工場からの排水で汚れていくというのはよくあることでした。この場合それは、三四郎が冒頭で目撃したような激しい都市化によるものだったに違いありません。

「すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。」

—夏目漱石「三四郎」より

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明治時代の藍染川。文京ふるさと歴史館より許可を得て掲載。個人蔵。

美穪子はその後、自分たちが一行からはぐれた迷子だ、という意味のことを話します。

「迷子の英訳を知っていらしって」
三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイ・シープ)――わかって?」

—夏目漱石「三四郎」より

藍染川のほとりで、三四郎は特に押しの一手を出すこともできず、美穪子からストレイ・シープという謎かけのような言葉をもらって終わるだけでした。迷子というのはどうとでもとれる印象的な言葉です。男女の状況の暗喩ととるのが普通ですが、ぼくとしてはこの直後に暗渠化されちゃう藍染川もなかなかの迷子なんじゃないかという気もします。

藍染川は「三四郎」の約10年後の大正初期から徐々に暗渠化されて行きます。きれいだった当時の川のようすも、だんだんとドブ川になっていくようすも、ちゃんと昔の文学作品の中に残されていたんですね。

参考文献:
永井荷風「日和下駄」
樋口一葉「たけくらべ」
夏目漱石「三四郎」
夏目漱石「こころ」
森鴎外「雁」
— 以上「青空文庫」より
堀越正光「東京探見」(宝島社)
森まゆみ他「地域雑誌『谷中根津千駄木』3号」(谷根千工房)

この記事を書いた人

三土たつお

1976年、東京・霜降銀座の近くの西ヶ原で生まれる。『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(共に洋泉社)などに寄稿。「@nifty:デイリーポータルZ」で街ネタをよく書いてます。

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