2015.03.13

水のない水辺から…「暗渠」の愉しみ方 第6回 「浜町川と龍閑川。ビルの隙間に、水門のむこうに、それはある。」

オフィスビルの隙間にある、暗渠のおはなし

暗渠概論から入り、3人のリレーであちこちの暗渠を紹介してきました。ここまでの連載を読まれた方は、暗渠の見方や、暗渠がどのような雰囲気をもつ空間なのか、なんとなくつかめてきたのではないでしょうか。今回は、これまでとは少し違う見た目の、いささか人工的な、ある川たちの跡について、お話ししたいと思います。

それは、護岸に突如出現する

私は暗渠を歩くことがもっとも好きですが、開渠(水面の見える川のこと)の岸辺を歩いたり、船に乗って愉しんだりすることもあります。ただし、そういうときに何を見ているかというと、川そのものではなく、橋でもなく、もっぱら護岸を見つめています。たとえば、神田川をクルーズしていると、こんなものが見えてきます。

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千代田区岩本町三丁目。植物の暖簾がコンニチハ。これは実は、川の名残といえるものなのです。
その川の名は、浜町川(浜町堀とも呼ばれます)。このちいさな水門の向こうの空間は、現在はオフィスビルがにょきにょきと建ち並ぶばかりですが、川の歴史という視点で捉えようとすると、とたんに豊かな世界が拡がりはじめるのでした。さてそれは、どんな世界なのでしょうか?

浜町川のあらまし

浜町川は、箱崎川というこれまた失われた水路の分流で、元和年間(1615~1623)に東日本橋あたりまで開削されました。元禄4(1691)年に延長されて龍閑川(後述)と合流し、明治16(1883)年にさらに延長されて神田川と合さるという、南から北へとつくられた人工の掘割でした。延長1,825m、川幅は約15m。これまで見てきたような、谷底をはしる自然河川とはなりたちが異なります。ゆえに、歩いていても高低差を感じることはほぼありません(微地形好きからするとまた違うかもしれませんけれどね)。

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Ipadから東京時層地図をキャプチャ

今回辿るエリアは、だいたいここらへんです。神田川がちらりと見えますが、ほぼ道路ですね。

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Ipadから東京時層地図をキャプチャ

明治の終わりごろ、こんなふうに水路(水色部分)が存在していました。中央区にも千代田区にも、いまよりもずっと水辺があったのです。

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さて、クルーズで見かけた水門の裏側は、こうなっています。
そして、振り向くとビルの間にあやしげな隙間がありました。

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この空間こそ、川の名残です。それではここから、浜町川をたどってゆくとしましょう。
ちなみに、いま歩き始めた場所は、かつてはこんな姿をしていました。中央区図書館のデータベースには、この他にも浜町川と龍閑川の現役時および埋立時の写真が沢山ありますのでご覧になってみてください。

見えないものを想う

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少しすすむと、「大和橋ガレージ」が出現します。ここの交差点の名前、そういえば「大和橋」というのでした。何度も通っていた道でしたが、橋名であったことに気づいたのは、暗渠を好きになってからのこと…そうか、浜町川に架けられていた橋の名だったのか。

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大和橋ガレージの先には、狭い裏路地のようなものが一本、伸びていました。車も人も、通らない道。自分の足音だけが、コツコツと響きます。

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新しいマンションが建っているこの場所には、戦後、浜町川を埋めて土地をつくり、馬喰町付近にあった露店を移転させ集めた建物がありました。橋本会館、といいました。取り壊される少し前に来たときには、うんともすんともいわない古めかしい建物たちに、異世界に入り込んでしまったような心持ちになったものです。暗渠沿いには雰囲気のある建物が残っていることが多いのですが、それらが建て替わってしまうことが、とくにこのごろ多いような気がします。

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このあたりの両岸には、東緑河岸、西緑河岸と名づけられた、河岸があったといわれます。今はこんな道ですが、前述のように川幅は15mです。運河のような水路に小舟がゆきかう風景と、積荷を降ろすかけ声や舟をこぐ音が、かつてここにはありました。
橋、河岸、舟、かけ声、昔の建物。想像しながら、歩いてゆきます。

龍閑川のあらまし

歩いていると突然空が広くなる場所があります。公園があるのです。

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龍閑児童遊園という、その空間に入ってみると、浜町川とは直角の向きに、川を模した空間がありました。じつは、ちょうどこの方向に、龍閑川(神田堀、八丁堀、銀堀とも)という川もありました。

写真12
Ipadから東京時層地図をキャプチャ

地図の真ん中を縦に流れるのが浜町川、左に分岐するのが龍閑川です。流路の位置に、川のモニュメントがあるという粋な計らいですね。少し、龍閑川の流路に逸れてみましょう。
龍閑川は、千代田区と中央区の区境を流れていた水路です。こちらは外濠から分流し、浜町川に合流していました。元禄4(1691)年に大下水として開削されたものが、次第に拡幅されてゆくのですが、安政4(1857)年に一度埋められ、明治16(1883)年にふたたび開削され、昭和23(1948)~25年にまた埋められたという波乱万丈ぶり。防火や排水などが、その用途であったそうです。

龍閑川に残された痕跡たち

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交差点「今川橋」は、今川焼の発祥の地(今川橋付近の店が販売していたからといいますが、諸説あるようです)ともされる場所です。

つづいて今川小路。

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この今川小路は、夜になるともっとすてきです。

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近くの流路上には、せり出す天ぷら屋さんの看板も。
飲み屋さんに入るもよし、入らなくてもよし、夜さんぽができるというのも、都心にある川跡の良いところではないでしょうか。夜の暗渠はひときわ艶めかしいし、ちょっと出掛けるついでや仕事帰りに、こんなふうに奥深い歴史を踏みしめるさんぽをすることができるのですから。

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最後、外堀通りにぶつかると、龍閑橋の親柱と欄干がひっそりと、しかし厳重に、そこに在ります。しかも、「大正期につくられた日本最初の鉄筋コンクリートトラス」を柵越しに拝むこともできるのです。龍閑橋の名の由来は「井上龍閑が住んでいたから」らしいですが、もとは別な水路に架けられていたのが、その水路が埋立てられたので移動、再利用され、さらにはこの橋名にちなんで、川の名が龍閑川となった、といいます。龍閑川の流路同様、なんだかややこしいですね。

ビルの隙間の川らしさ

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浜町川に戻りましょう。川幅の記述からすると、このブロックそのものが川であったとみなせます。 この狭い路地はもしかしたら、埋められた浜町川の息継ぎのために、残してあるのかもしれません。
鞍掛橋…あ、ここも橋だったか。ビルの裏側を、探検気分ですり抜けます。

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お店のごみ箱、店員さんの休憩場所、むき出しの配管。そう、ここは「裏側」なのです。川に向かって出入口を作る家はありませんから、暗渠は建物の裏側に面しているケースが多いです。ここも、裏側ばかりが続くことにより、ふと、暗渠らしいと思わせられます。そしてこの「見向きもされない感じ」に、私は時折ホッとするのです。

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それから、ところどころに、下水道局の敷地であることを示す札が立っています。まるで、ここは暗渠だと主張しているかのように。下水道台帳をみてみると、この下には陶管の下水道が通っているようでした。地面の下に潜った浜町川が、古い陶管をつたい、流れゆくさまを思い描きます。

川にできたものたち

浜町川の名所といえる場所にやってきました。問屋橋商店街です。

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2階、3階と積み重なった家々。前述の橋本会館と似ており、戦後に日本橋周辺の露店が移転させられて出来た商店街だといいます。往時はもっとにぎわっていて、居酒屋がびっしりと並び、夜になると遊び人が押し掛けるので「泣く子も黙る問屋橋」といわれていたそうです。移転先にここが選ばれたのは、幅広の水路が戦災の瓦礫で埋められ、まとまった土地ができたからでしょう。足元深くに瓦礫が眠っている場所、そして昭和の歴史の重みを感じる場所です。

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浜町川から少し西にいくと、濱田家という立派な料亭が見えてきます。お向かいには見番まで。ここは現在、芳町という花街ですが、もっともっと以前、吉原遊郭(元吉原)ありました。吉原といえば浅草のほうに現在もありますが、そこは所謂新吉原。ここにあったものが移っていったのでした。江戸の都市づくりのさいに、工事をする男たちの遊び場所として点々とできていた遊女町をあつめ、葭の生い茂る沼地を埋めて、元吉原はつくられたといわれます。
浜町川が開削されはじめたころの出来事です。吉原の周囲には堀をめぐらした、といわれますが、その堀はまさにこの浜町川から水を引いたものでした。

写真24

Ipadから東京時層地図をキャプチャ

四角くつくられた入堀のうち南端は、竃(へっつい)河岸といって、近隣にあった銀座で使う資材運搬のため、4辺のうちもっとも遅くまで残っていました。上掲の地図では、久松橋から左に分岐している水路です。
明暦の大火で焼失した遊郭が浅草へと移ったのち、跡地は町地となったものの、界隈にあった芝居小屋の関係もあって此処は芸の街となり、花柳界として栄えていくのでした。辿る歴史は異なれど、新吉原も同様に低湿地に作られており、暗渠との縁を感じます。
商店街に花街。どちらも、時代の要請に合わせ、川があったからこそつくられたものなのでした。

浜町川の終焉

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以降は浜町川上は緑道となり、箱崎までつづきます。

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最後の方は高速道路の裏側を見ながら緑道を歩く(雨の日も大丈夫!)という贅沢空間となって、そして、終わります。
浜町川は、先述のように戦争の廃材により昭和26(1951)年あたりまでに一部埋められ、生き残った南部分も昭和49年に埋立てられました。北へ北へと開削され、南へ南へと埋められていった、というわけです。龍閑川も終戦後、復興都市計画により埋立てられたのでした。都内の多くの中小河川は関東大震災後と東京オリンピック前に暗渠化されているのですが、浜町川と龍閑川は事情が異なります。いっぽう、近所にある築地川などは、東京オリンピックに向けた都市改造の標的となり、高速道路になっています。
誕生から消滅まで、すべて人の手が加えられた川たち。人の都合で掘られ、埋められを繰り返し、その上は僅かな隙間を残してビルや公園になっています。しかし、彼らが纏っている雰囲気も、まさに暗渠のそれなのでした。

写真27

江戸からつづく長い長いものがたりと、昭和の複雑な歴史を持ち合わせた川たち。しんとした沼地が、にぎやかな運河や商店街となり、そしてふたたび、しずかになって。浜町川と龍閑川は、それらを感じながらその場所の上を歩ける、ということが持ち味であると思います。

おわりに

水門の向こうには、このような世界が拡がっているのでした。船に乗るとき、川べりを歩くとき、護岸に水門を、もしくは開いている穴を見かけたら、その先にあるかもしれない、見えない川たちのことを想ってみてください。別の水門は、また異なるものがたりの入口であるかもしれません。その穴がもたらされる以前の世界にあった水面を、舟を、傍らのひとびとを、想像してみてください。街の見え方が、きっとまたひとつ、変わります。

<参考文献>
上村敏彦 「東京花街・粋な街」 街と暮らし社 2008年
中央区郷土天文館「―中央区の掘割をたどる―水のまちの記憶」第9回特別展図録 2010年
藤木TDC・イワシタフミアキ 「昭和幻景」ミリオン出版 2009年

この記事を書いた人

吉村生

杉並区を中心に、縁のある土地の暗渠について掘り下げたり、暗渠のほとりで飲み食いをしたり、ひたすら暗渠蓋の写真を集めたり、銭湯やラムネ工場と暗渠を関連づけるなど、好奇心の赴くままに活動している。 「暗渠さんぽ」http://kaeru.moe-nifty.com/ 管理人、『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』分担執筆。

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