2015.05.11 Mon

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第8回  神戸の川跡に魅せられて

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第8回  神戸の川跡に魅せられて

湧水の流れる地下河川、天井川の跡地に名残。今月は東京を離れ、港町神戸から暗渠への誘いです。

いざ、関西へ

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第8回  神戸の川跡に魅せられて

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さらなる複雑な川跡へ:湊川

おつぎはお隣、新開地です。
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立ち飲み屋にレトロ喫茶、ギャンブル場の並ぶその風情がたいへん好みで、溶け込んだふりをしてキムチ天ぷらうどんを立食し、しばし街を観察していました。新開地のアーケードには水のにおいはあまりしなかったものの、地図を見ているとどうも気になる。運河跡のような区割をしているのです。そこで古い地図をみてみると、意外なことにここには「湊川」という水路があったようでした。

湊川は天井川(※)であったため、付け替えられたようです。明治期の地図では、新湊川が開削され、そのかたわらで湊川が埋められ湊川遊園となってゆくのが見て取れます。
明治の頃、湊川は「神戸」と「兵庫」を分断するものであったそうです。川を境に住民の気質も随分と異なり、兵庫は保守的で神戸はハイカラ、川の反対側に用がある時には「川を越えて行ってくるワ」と、大儀そうに言っていたものだったとか。湊川という渡りにくい川は、さまざまなものを隔てていたのでした。

現在の街をみてみると、湊川中流部あたりまではまさに天井川跡、外側のほうが低いのでした。このような地形だから、水のにおいがする、とはとても思えなかったわけです。しかし天井川の川跡だとわかると、この眺めに対する感触は一変します。

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つまりここは堤防。今立っている低いところは川の外。向こうの高い土地が、川の中。
上は湊川公園になっています。

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さらにこの湊川公園の下の部分には商店街があるのです。湊川公園の下ということは、湊川の下。ということは、天井川の下であり、暗渠の中のようなもの!と、大興奮しながらミナエン商店街の喫茶店でトーストを食べました。

湊川沿いにあった風景:明治から昭和

湊川沿いにはかつて、福原遊郭がありました。
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桜筋と柳筋に、ソープランドがぽつぽつと今もあります。福原遊郭は明治4年、計画的につくられたものです。神戸の開港によって軽輩のものが出入りするからと、市街地から隔離されたこの地に遊郭ができました。条件に合うのは、川べり・・・吉原と通じるものがあります。往時の福原遊郭においては、開渠であった湊川を渡るため、木造の金刀比羅橋が架けられており、そこが入口となっていました。金刀比羅橋は、遊客が財布と相談をする、思案橋でもあったそうです。福原遊郭誕生ののち、30数年経ってたまたま湊川跡が栄え出し、両者が客を呼びあって繁盛することとなりました。

しかしその隣に、屋根より高い天井川が流れていたことも、忘れてはなりません。ほぼ毎年のように台風があり、水害があったことを地元の人が記しています。湊川の「ドテシタ」で暮らすひとびとの恐怖はいかばかりか。最も悲惨だったのは明治29年の水害でした。長雨が続き、8月30日夜11時過ぎに堤防が決壊、滝のように水が落ちてきたそうです。福原遊郭の遊女が沢山亡くなり、全壊の妓楼も複数あったようです。このできごとにより、湊川の改修計画は進み始めました。

地元の方に、湊川のことを聞いてみました。すると、明治に付け替えられたこと、その理由は洪水だけではなくこの川と堤防により神戸の街と交通が分断され発展が妨げられることも大きかったということ、付け替え工事は民間の会社が協力してやったこと、などを、教えてくださいました。隧道を掘っての付け替えでしたが、当時は人力のみの大作業。また、現在地元の方は民間による工事であることを肯定的にお話しされていましたが、当時はどうも、市民の風当たりが厳しかったような記録があります。さまざまな意味での難工事を経、明治34年、目出度く新湊川ができました。

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いま、川跡の終点には、付け替え後の流路である新湊川の開渠があります。新湊川は河床の低い河川として、西へと迂回し流れていきます。

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